Dr.Kの挑戦(第5回)鉄は熱いうちに打て

遺産効果の限界

 前回、当院が取り組む医療の三本柱(三つのK)を実践してゆくときの根底となる概念であるメタボリック・メモリー(Metabolic Memory)と遺産効果(Legacy Effect)について説明させていただきましたが、理解していただけたでしょうか。要約すれば、過去にどのくらいの高血糖に、どの程度の期間曝露されたかが、その後の糖尿病血管合併症の進展を左右し、早期からの介入がその後長く合併症予防に対して効果を発揮するということです。わかりやすく言えば、生活習慣病に対して一夜漬けでなく、地道に努力し自分の健康維持・健康増進に対して投資を続ける人はいずれは報われるということに尽きると思います。

 これらの概念を生かして、2008年以降、我々は低血糖を極力避けつつ、糖尿病の早期段階から血糖・体重・血圧・脂質に対して多面的介入をすることで、糖尿病患者の最小血管症(神経障害、網膜症、腎症)・大血管症(心筋梗塞、脳梗塞、閉塞性動脈硬化症)の進行を予防でき、最終的には全死亡率の低下まで期待できるだろうと信じて目の前の糖尿病患者の治療にあたってきています。

 しかし、その後血糖管理に対するわれわれの培ってきた認識を揺さぶる可能性がある報告がなされました。VADT試験のフォローアップデータが報告され(1)、10年フォローアップでは認められたLegacy Effect(遺産効果)が(2)、なんと15年経過の時点では認められなくなった、すなわち遺産効果が消失していたというまさに衝撃的な内容です。

VADT延長試験の最終解析が発表されたのは、2018年6月米国フロリダ州オーランドで開催された第78回米国糖尿病学会学術集会で、夕立の雷鳴が会場内にも響く中、主要評価項目である心血管イベントの回避率を示したスライド(RCT開始から10年近くまで徐々に開大しつつあった積極治療群と標準治療群のカプランマイヤー曲線(生存曲線)が、15年後の追跡終了時には再度重なっていた)がスクリーンに投影されると、多くの聴衆は息をのんだと報告されています。厳格な血糖管理がかえって死亡率を増やすというセンセーショナルは報告から10年を経て、糖尿病治療は新たな局面を迎えています。

 今回のVADT研究のフォローアップ結果から見えてきたことは、かつて血糖管理が悪かった患者は生涯かけてもその負の遺産を払拭することができないが、かつて血糖管理が悪かった患者でも、今から3年間がっちりと血糖管理することができれば、心血管イベントについてのMetabolic Memoryは打ち消せるだろうということである。

 UKPDSやDCCT/EDICでその存在が認められた遺産効果が、VADTでは消失していた理由はどこにあるか、仮説としては、UKPDSやDCCTに組み入れられた糖尿病患者が発症早期であり、一方VADTに組み入れられた糖尿病患者が長期罹病者であるため、介入するのが遅過ぎた(すなわち既に強化療法群にも負の遺産が存在していた)と考えられています。

 今回の報告は遺産効果の存在を否定するものではなく、Metabolic Memoryという負の遺産が高血糖とその曝露期間に依存するという機序から考えれば理解できるかもしれません。Metabolic Memoryが蓄積していない早期からの積極的治療と、その継続が重要であることを示唆していると考えれば、治療へのさらなるモティベーションの高まりの起爆剤になると考えられます。学習と同じで、一夜漬けでなく地道な努力が重要であることが糖尿病治療の領域でも示されたということだと考える。

 まさに、糖尿病治療をはじめとする生活習慣病治療は『鉄は熱いうちに打て』、『天は自ら助くる者を助く』の世界なのかもしれない。

(1)N Engl J Med 2019;380:2215-2224

(2)N Engl J Med 2015;372:2197-2206

ACCORD(N Engl J Med 2008;358:2545-2559)、

ADVANCE(N Engl J Med 2008;358: 2560-2572)、

VADT(N Engl J Med 2009;360:129-139N Engl J Med 2015;372:2197-2206

N Engl J Med 2019;380:2215-2224

UKPDS80:N Engl J Med 2008;359:1577-1589

Steno-2:N Engl J Med 2008;358:580-591