Dr.Kの挑戦(第8回)予防医療への投資

エビデンスのある予防医療の取り組みの重要性

 当院は、病気を治療することはプロとして当然として、治療の先にあることが期待されであろう遺産効果“Legacy Effect”を目指して、「医療は投資である」という再定義・再設定した医療の概念を実現する取り組みに着手し模索しています。その入り口として科学的根拠のある「予防医療」を積極的に取り入れて、医療資源を集中的に投資するように患者さんに情報提供し続けています。今回は「予防医療」の概念・意義に関して考えてみたいと思います。

 経済産業省は「予防医療で医療費が下がる」と喧伝していますが、そのような考え方は「医療費亡国論」(1983年、吉村仁)でも言及されており、昔からずっと声高に叫ばれていることです。しかし、研究者の中では、予防医療は医療費抑制に有効であるという意見と、有効ではないという意見が真っ向から対立しており、実際にはこのような二元論で議論するほど単純な問題ではないと考えます。

 アメリカの大統領選挙において2008年当時のバラク・オバマ大統領候補やヒラリー・クリントンらが「予防医療サービスに予算を投資することで医療費の削減を図る」という議論を展開していたことに対して、アメリカの医療政策学・医療経済学の世界では、予防医療が必ずしも医療費抑制に効果的であるわけではないと理解されています。日本では健診の効果や、予防医療への取り組みが医療費を抑制するのに非常に効果的なのではないかと言う議論が行われているようですが、予防医療サービスの中には医療費抑制効果があるものもあるが、多くの予防医療サービスは実際には医療費を抑制しない可能性があると考えて資源の投入に際して優先度を付けて配分する検討を十分にしないと自己満足の無駄な投資に終わってしまう危険性があります。

 医療に関する費用効果分析研究の第一人者である研究者たちが「なぜ予防医療は医療費削減に効果的であると最初から決めつけていいのか、何となくそういうイメージがあるだけじゃないのか」という視点から予防医療の効果に反論した有名な論文があります。この研究では、2000年~2005年に発表された費用効果分析の論文をレビューして、1500個の費用効果比、その医療サービスに必要なコストに対して、どれくらいの健康のメリットが得られるかという比を調べられました。健康へのアウトカムが改善されるだけでなく、医療費抑制効果もある医療サービス、お金がかかりすぎて医療費抑制効果はないが、それと比較して得られる健康のメリットが大きい医療サービス、お金がかかり医療費増につながるだけでなく、健康へのメリットがそれと比較して小さいかむしろ有害であったりする医療サービスの3群に分けて検討しています。

 具体的な例としては、乳幼児へのワクチン接種は、乳幼児の健康状態が良くなるだけでなく、将来病気になって医療サービスを消費することがなくなるので、長いスパンで考えると医療費抑制効果があると言うことができます。これに対して、多くの住民や従業員を対象に健診やがん検診を行えば、少ないコストで多くの人の健康状態を向上させる可能性を秘めた取り組みですが、事後の措置が不十分である場合は逆に長期の視点で見ると医療費は増加してしまう恐れがあります。提供することで無駄な追加検査が必要になり、本来だったら必要ではない手術につながってしまうため、その他の部分でコストがかかってきてしまうのです。

 このような話を持ち出すと、「健康とお金とどっちが大事なのか」という展開になりますが、この議論には健康とお金のトレードオフ(何かを得ると、別の何かを失うという相容れない関係)は存在していないと考えます。乳幼児へワクチンを接種する医療サービスは、それ提供することで健康アウトカムが格段に改善して、さらには医療費も抑制できます。これは価値観の問題ではなく、誰が見ても広く提供するべきであると考えられるような医療サービスであると言うことができます。

 アメリカではオバマケアによって、医療保険は科学的根拠のある予防医療をすべてカバーすることが法律で義務付けられました。この中で、「アメリカ合衆国予防医学専門委員会(USPSTF)」の専門家の推奨内容に依拠したエビデンスのある予防医療のリストが使われています。そしてこの委員会の推奨は、健康増進のエビデンスがあるかどうかのみで決定されており、費用対効果は考慮されていません。つまり、医療費の抑制という観点ではなく、国民の健康を最重視した取り組みであることが見て取れます。その予防医療の取り組みで国民の健康が良くなるのであれば、費用対効果が優れなくても構わないという考え方です。現時点の日本での予防医療を取り巻く議論は、こういった観点が欠落しており、極端に医療費の話に偏っていると感じています。

 健康よりも医療費削減を優先させると、「喫煙者には禁煙させると長生きして医療費を増やすから、医療費の観点からは禁煙指導は無効である」というとんでもない解釈が出てきますが、こんな発想は、手術が必要な病気になって病院を受診したときに、「手術は費用が掛かりすぎて医療費を増大させるから、手術しないで自宅療養してください」というのと思考過程は同じになってしまいます。医療費だけで考えていては何も見えないし、取り組み的にも失敗するのは目に見えています。ただ単に医療費を下げるだけでは、医療の質の点においてデメリットが発生する危険性があります。それだけに、一律で医療費を下げるのではなく、できるだけ医療の無駄な部分を見つけ、医療の質への悪影響のないところに注力して医療費を抑制するべきであると考えます。

 健診や予防医療と聞くだけで何となく医療費抑制効果があると言うイメージがありますが、実際には予防医療サービスの一部にしか医療費抑制効果がないので、医療費抑制を目的とするのであればどのサービスを提供するかを厳選する必要があると言うことです。さらには治療的サービスの中にも医療費抑制効果のあるものが同程度(20%弱)存在しているので、予防医療 vs. 治療的サービスという対立軸で考えるのではなく、予防医療であれ治療的サービスであれ20%弱の健康改善効果プラス医療費抑制効果のあるサービスをまずは広くカバーして自己負担なしで提供するのが良いと考えられます。重要なのは「予防医療=医療費抑制になる」という固定観念を持たずに、ケース・バイ・ケースできちんとエビデンスに基づいて科学的に評価・判断する必要があるということです。

 自らの健康に様々な医療資源を投資し、それを維持・増進していくに当たっては、「予防」は制度上日本の公的保険医療保険ではほとんどカバーされていません。それが病気になった途端、保険給付を受けられ、公的サポートが分厚くなるわけですから、自分でお金をかけて健康に気を遣うのは馬鹿らしいとか必要ないと感じてしまうことにもなりがちです。しかし、生活習慣病を捉える視点として、これまで取り上げてきたMetabolic MemoryとLegacy Effectという考え方を導入することで、1の投資に対して3倍以上の成果と見返りが期待出来る可能性があります。

 たとえ医療費の削減に繋がらずとも、健康寿命が伸びれば、国民の生産性が上がるのは間違いなく、個々人の健康寿命を延ばす意義は大きいと考えています。予防医療・投資型医療によって健康寿命が延び、健康に働ける人が増えたり、働ける期間が延びたりして、それが経済活動につながった場合、医療費は下がらなくてもGDP(国内総生産:国が1年間にどれだけ儲けたか)が増える可能性があります。GDPが増えて税収が増えれば、医療に使える財源が増えるので、その意味では予防医療に医療資源を先行投資することのメリットはこれらの研究結果よりも大きい可能性があると考えます。